東京表参道にて「自然療法の国際総合学院IMSI」学院長として活動している、冨野玲子さんのセラピストライフを紹介します。
冨野さんはセラピスト歴22年。彼女が学院長を務める「自然療法の国際総合学院IMSI(The International Medical-Spa Institute)」は、その名が示す通り、国際色豊かなセラピーを生徒に伝えています。
その一部をご紹介すると、英国のIFPAアロマセラピー、ベトナムのディエンチャン、南アフリカのセラピューティック・リフレクソロジー、米国のブレインジムなど。
冨野さんは数名の講師の方とともに、25カ国にも渡る世界の伝統療法、補完療法を伝えています。
ワンディレッスンから1年コースまで様々な授業スタイルがあり、これまでに13000人以上の方がこのスクールで学び、多くの卒業生たちがセラピストとして、あるいはそれぞれの専門職の中でセラピーを取り入れて活動をしているそうです。
「IMSIは言うなれば“知る人ぞ知る館”みたいな場所です。英国とか、南アフリカとか、ベトナムとか、室内には世界のセラピーの紹介があって、訪れた方から『これ何ですか』って聞かれると、私だけじゃなくて他のスタッフも1聞かれると10喋っちゃう。そういうのが面白いと思ってくださる方が、引き寄せられる館。そんな感じですね。学びたい欲を満たすには、最適な環境だと思います」(冨野さん談)
なぜ冨野さんはセラピーの世界に入ったのか? そして、どのような経緯で現在の立場に就いたのか。これまでの歩みを伺いました。
やっぱり私は人が好きなんだ
冨野さんに子どもの頃を聞くと、「特技も取り柄もない普通すぎる、目立たない子どもだった」と振り返ってくれました。
早生まれである上に病弱だったとこともあり、「自分はいつもビリなんだ」と思っていて、常に人に先を譲って争わないようにしていたそうです。
そんな彼女が自分を変えようと心に決めたのは、高校生の頃。
周りの友人達が将来の進路を考え始める中、「このままじゃまずいな」と思った冨野さんは、何か特技を身に付けて、それを活かした仕事に就けないかと考えたそうです。
その特技とは、珍しい外国語を身に付けることであり、選んだのがベトナム語でした。
どうしてベトナム語だったのですか、と私が聞いたところ、「暖かいアジアの国で、文字がアルファベットに似ているから」と笑顔で答えてくれました。
こうして冨野さんは東京外国語大学に進み、ベトナム語を専攻。ベトナムへの留学も経験しました。
当時、電気も下水道も整備されていないような地域もありながらも、人々が自然とともに活き活きと健康的に生活する姿に感動したそうです。
大学卒業後、冨野さんは大手自動車メーカーに入社。身に付けた外国語を活かして、ベトナムだけでなく、アフリカやヨーロッパ、南米など、世界各国を仕事で回ったそうです。
そんな生活を5年ほど続けるうちに、彼女の中に沸き起こった思い。
それは、「やっぱり私は人が好きなんだ」ということでした。
「私がいた自動車メーカーでは、周りの社員達はそのメーカーの製品のことを目を輝かせて語る人が多かったんです。私も製品を好きになろうと努力したんですけど、私は機械よりも企業活動を通じて交流する人々のことが好きなんだ、と気が付いて、これは道を間違えちゃったかな?なんて」(冨野さん談)
ならば自分が目を輝かせて語れるものはなんだろうか。
そう考え始めた時に冨野さんの脳裏に甦ったのは、学生時代にベトナムに留学した時の光景でした。
経済的には発展途上でありながら、薬草やマッサージなどを使った伝統療法が当たり前のように日常の中に活きていて、人々が和やかな表情で心豊かに暮らしている。
近代化される以前の日本とも重なる、不思議と懐かしさを覚えるような原風景に、学生時代の冨野さんは心躍らせたのだそうです。
折しも90年代半ばの頃。日本ではアロマテラピーやリフレクソロジーが「お稽古事」として華やかに紹介されるようになった時期でした。
冨野さんはセラピストという言葉とともに、自然療法という考え方を知り、仕事をする傍ら、アロマテラピーの勉強を始めます。
そして、ヨーロッパではセラピストが一般の人と医療の間に立って、医師にかかる以前の状態の人や、医療にともなう心身の痛みを緩和するために代替療法を提供していることを知ります。
「ヨーロッパでアロマセラピーを学ぼう」と思い立った冨野さんは、留学費用を貯めると、会社に辞表を出したその足で旅行代理店に向かったそうです。
そしてイギリスに渡り、半年間、アロマテラピーの資格取得コースに通い、さらに2ヶ月ほど滞在して実践経験を積み、アロマセラピストの資格を受けます。
「日本でもアロマを学んではいたんですけれど、その時に学んだお洒落なリラクゼーションケアみたいなイメージと比べて、イギリスに行ったら腰が抜けるほど驚きました。癌ケアセンターや人工透析ルームにアロマセラピストが常駐していて、患者さんは医療の治療を受けながらアロマセラピストからマッサージを受けている。そんな状況は日本では考えられなかったからです。イギリスでは自然療法はデリケートな状態にある方の為にもセラピーが役立っていることを教わって、『これが自然療法のあるべき姿なんじゃないか』って思いました」(冨野さん談)
イギリスでは、医療と補完療法の絶妙な距離感を持って実践されている。
そのことに感動した冨野さんは、そうした在り方を日本にも伝えたいと考え、資格取得後の2001年に帰国。日本で活動する方法を模索し始めます。
そんな時に出合ったのが、当時、東京に進出したばかりの「JACジャパンアロマカレッジ」、後の「自然療法の国際総合学院IMSI」でした。
冨野さんは前学院長と意気投合し、セラピスト、インストラクターとして活動を開始しました。
その後、学院長を引き継いだ冨野さんは、それまでの海外経験や人脈を活かして、海外のセラピーやその指導者を招聘する活動を活発化させます。
こうした経緯により、前述したように、今では25カ国にも渡る世界の伝統療法、補完療法を伝える場となっていったのです。
冨野さんがベトナムと“再会”したのは、海外の指導者を招聘する活動の中でのことでした。
海外から招聘した世界的なリフレクソロジストから「ディエンチャン」というセラピーの名を聞いたのです。
冨野さんは、その名前の響きから、それがベトナム語であることは分かっても、そのセラピーの存在を知らなかったそうです。
世界的なリフレクソロジストが影響を受けたという「ディエンチャン」。
冨野さんはその正体を突き止めるべく、ベトナム語を駆使して調べ、辿り着いたのが、あるベトナムの治療院でした。
冨野さんが思いきって電話をかけると、なんと創始者ブイ・クォック・チャウ氏と直接話すことができたそうです。
そして、「そんなに学びたいのなら、私のところに来なさい」とチャウ氏に招かれ、冨野さんは2008年にベトナムを再訪することとなります。
「ディエンチャンの存在を知ったとき、私はこのためにベトナム語を学んだんだって思いました。チャウ先生のご自宅を訪ねたら、その場でフォーリンラブしてしまいまして。先生に、私も学びたいです、日本で伝えたいですって直談判しました。最初に出会ってすぐに生徒になっちゃったんですよ」(冨野さん談)
ディエンチャンとは、ブイ・クォック・チャウ氏が東洋医学とベトナムの民間伝承を元に顔の反射区を割り出し、刺激法とともに体系化した「刺さない顔鍼」。
ディエンは「顔」、チャンは「診断」を意味する言葉で、1980年に発表されています。
ベトナムでは昔から鍼治療が行われてきましたが、チャウ氏は鍼ではなく箸の先で刺激する方法を考案し、そこから発展して今では100種類以上の道具を用いるようになっているそうです。
ディエンチャンのもう1つの特徴は、深い理論を背景に備えながらも、それを学ばずとも反射区図を見ながら行えば誰にでも使えるという、シンプルさにあります。
つまり、チャウ氏は、誰にでも日常に取り入れられることを、初めから想定して創始しているわけです。
医療にかかる前にちょっとした不調に対しては民間療法を普段使いして対処するという文化。
それは冨野さんが学生時代にベトナムを訪れた時に目にした原風景や、イギリスで触れた医療と代替療法の絶妙な距離感とも重なる思想でした。
冨野さんは、チャウ氏からディエンチャンを学び、現在は日本でコースを教えられる立場になっています。
世界には魅力的なセラピーがたくさんある
セラピストを育成する立場になって、今年で22年になる冨野さん。
彼女にこれまでの歩みを振り返ってもらうと、「セラピストを育てているっていうのは、ちょっとおこがましいかも」とはにかみながら、こんな話をしてくれました。
「今の立場になるまでには成り行きもあったので、向いてるかどうかは今でも分かりません。だけど、こんな楽しい仕事は他にないと思いながら毎日過ごしてます。当たり前ですけど、ここにはわざわざお金と時間を掛けてまで、学びたい人しか来ないじゃないですか。興味がある人に対して伝えるっていうのは、すごく楽しいし、ありがたい仕事ですよね。ディエンチャンを含めて、世界には素晴らしいセラピーがあって、知りたい人には『先生、もういいです』って言われるまでしゃべり続けちゃうんですよ」(冨野さん談)
この記事の中では、英国アロマやディエンチャン以外のセラピーについて紹介することができませんでしたが、「世界には魅力的なセラピーがたくさんある」という驚きと好奇心を掻き立てる場として、冨野さんがIMSIを育ててきたことは、とても素晴らしいことだと思います。
冨野さんは、ベトナムを始めとした海外をまわる中で見聞きし、直に体験したことで、日本にいては気づけないような価値観を得て、日本でセラピストとして活動してきました。
IMSIは、そんな世界の景色を、日本にいるセラピストたちが見られるようにと冨野さんが開いた窓のようなものなのかもしれません。
世界には、多様な価値観や文化、そして人とセラピーとの距離感があって、それを知ることもまた、セラピストという生き方に厚みをもたらしてくれるように思いました。
校長からのメッセージ
セラピースクールは、一面では技術を教えるビジネスです。
まるで切り売りするかのように、スキルを教えるスクールが日本にあることは否定できません。
その点で、冨野さんのスタイルはどうだろうか、と考えますと、ここまで記事を読んでもらってもわかるように、ビジネスライクなドライさが微塵も感じられないスタンスであることが垣間見えました。
つまり、セラピースキルには、それを受け継いできた人々の労りの心や、文化的な背景、思想が必ず存在していて、冨野さんはそこを含めて「セラピー」であると考えているのではないかと思うのです。
冨野さんは「人を育てるなんておこがましい」と言いますが、その実、セラピースキルと同時にその背景にある精神を伝えているのですから、彼女から学んだ生徒さんは、きっと人格的にも成長していくのだろうと思いますし、講師と生徒の間に良好な関係性を構築することにもなるはずです。
それは、彼女と卒業生との関係性にもよく現れているようで、「卒業してからの方がコミュニケーションが増える人はいっぱいいますね」と冨野さんは笑顔で語っていました。
卒業生にとってスクールの卒業はセラピストライフのスタートに過ぎないので、壁にぶつかるのはスタートを切った後です。
そんな時に、相談できるような関係性を授業を通して冨野さんと生徒さんは築いていて、成長を助けてくれる先生として卒業後にも頼りにされるわけです。
さて、今回、冨野さんのインタビューを通して思うことは、偶然の出会いをうまく自分の中に取り込み、自分の仕事として育ててきたことが、そのまま彼女のセラピストライフになっているのでは、ということです。
そのことを冨野さんに訊くと、「私、本当に行き当たりばったりなので」と照れ笑い。
どうしても日本人の多くが「目標設定を決めて、逆算しながら、計画通りに歩んでいくこと」を良しとする風潮があります。
しかし、実際の所、人との出会い、決断をするタイミング、気付きを得るタイミング、社会を変えるほどの出来事など、予測不能な条件が人生にある限り、計画通りに歩くことはやはり難しいものです。
ですから、計画を完璧に立てないながらも、方向性を決めたら、きちんとアンテナを張って偶然の恩恵を受け取りながら、自分が置かれた状況に適応する歩み方の方が柔軟性に富んでいるともいえます。
冨野さんの場合、自分の特技を求めてベトナム語を学んだことをきっかけに、視点も活動範囲もグローバルになり、その中で得たご縁がセラピーの学びをもたらし、現在の立場へと彼女を運んできたというイメージができます。
さらに、偶然が彼女に運んでくる出会いが、新しい道を示すこともあるようです。
冨野さんが40代前半でお子さんを授かったことで、子どもの発育や教育の支援に役立つ情報やセラピーを学ぶことになり、同じ子を育てるお母さんたちにセラピストとしての知見をフィードバックするという活動が徐々に形になり始めているようなのです。
「色んな意味で公私混同なんですけどね。今までは海外に興味がある方ばかりが、うちの学校に来てたんですけど、ブログとかフェイスブックとかで、私が子育てや学習支援に奮闘してるのを見て、同じ悩みを持つお母さんたちがIMSIに問い合わせてくれることが増えてきたんです。そういう新しい出会いがあるのも、娘のおかげかなと思って、とても感謝しています」(冨野さん談)
民間療法や自然療法は、きっと必要に応える形で生まれ、発達してきたはずです。
それは、ベトナムで薬草やマッサージが日常生活に溶け込んでいることも然り、イギリスで医療の中でセラピストが活躍していることも然りです。
それこそが、生きたセラピーの在り方と言えるはずです。
だから、冨野さんがお子さんのために新しい学びをして、セラピストとしての知恵の中から新しい工夫を生み出すことも、やはり生きたセラピーなのでしょう。
そして、きっと同じ立場のお母さんたち、子どもたちを助けることになるはずです。
「今年、50歳になるんですよ!」と語る冨野さんの快活さを見ていると、これからも新しい偶然の出会いや、変化からうまく恩恵を受け取り、自身のセラピストライフへと取り込んでいくのだろうと思いました。
そして、そんな彼女の生き方こそが、IMSIに集まる生徒たちにとってのもっとも大切な教材なのだろう。そんなことを考えたインタビューでした。
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